~森かすがの自己紹介ストーリーシリーズ~

(1)幼少~中学生時代。空虚な性格とアトピーとの関係

(2)大学生時代。はじめての『癒し』体験。

(3)卒業~就職。感情のコントロールがきかなくなる。

(4)キネスティックセラピーとの出会いと、されていやだったことの関係

(5)地獄のような日々。そして居眠り運転からの生還。

(6)変化への第一歩。わたしが大切にしたかった想いに気づく。

(7)自己紹介さいごに

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聖書では「罪」という言葉がよく登場してきますが、これは原語に訳すと「むさぼり」「足ることを知らない欲求」という意味があるそうです。

 

このときの私はまさしく「むさぼりの化身」で、何をしても「まだ足りない」「まだ足りない」、そんな気持ちにかられていたのでした。

 

『人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。』
(マタイ7章21節22節)

 

自分の見栄や立場を大事にしようとした結果、私のココロはどんどん暗い方向へ向かって行きます。

 

会社では、自分がやらかしたミスを同僚になすりつけました。自分の評判が落ちるのが怖くて、できるだけ周りの人間の悪評を口にするようになっていました。

 

プライベートもぐずぐずで、すでに恋人がいる人に関係を迫りました。相手の恋人に嫉妬もしましたし、嫉妬もされました。人間がすべて敵に見えるようになりました。

 

それは、今まで感じていたアトピーの苦しみからくる空虚さとはまったく違う苦しみでした。まるで、魂と身体が引き離されてしまったかのように虚しい日々。『「隣人愛を行いたい」と思っていた私は遠い過去のものになってしまった、』と思うたび、とてつもない絶望を感じました。

 

そんな陰険なことをやらかしているにも関わらず、私のココロはいつもどこかで苦しんでいたのも事実でした。

 

気づけば毎日泣いていましたし、今まで「美しい」と思っていたことや「楽しい」と思っていたことには何も心が動かなくなっていたのでした。

 

「今、私が立っているこの場所が地獄なのではないか。私はすでに、地獄に落ちたのではないか。」

そんな風に思えてなりませんでした。

 

【居眠り運転からの生還して考えたこと】

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「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。」(詩編22章1節)

 

聖書には、神さまに対する嘆きの言葉が意外とたくさんあります。そんななかでも、この一節は特に有名です。こんな聖書の言葉がリフレインしていたある日の朝。

 

忙しくて連続残業と早朝出勤がつづいた日、私は車での通勤中に居眠りをしてしまいました。

 

「ぱーーーーーっ!!!」

 

ふつうでは鳴らなさないような、長いクラクションで目が覚めました。私は無意識にハンドルを左に切り、縁石に乗り上げたようでした。異様なクラクションは、異変に気付いた対向車の運転手が鳴らしてくれたものでした。

 

そこは川沿いの車専用の道路でした。あと10メートルもすすんでいたところで眠っていれば、縁石もないところから川にまっさかさまでしたし、逆にハンドルを切っていたとすれば私も死に、対向車の人も無事では済まなかっただろう、というような事態だったと気づきました。

 

その時はただ、惨事にならなかったことに身震いしましたが、やがて私は自分に問いかけはじめます。この日の手帳に、こんな言葉が書きなぐってありました。

 

「今日死んでもいいのか?」

 

 

「今日死んでもいいのか?」

 

もう一度とりもどしたい。「まだ足りない」と思うのではなくて、私が心から「美しい」と思ったり「楽しい」と思えるような日々を。

喜びにあふれて、未来への希望を抱いて眠りにつけるあの日々を。

 

薬ではダメだと思いました。ここまで飲み続けて半年、私にもたらされたのは副作用だけでした。

 

なにからはじめたらいいのか。見当がつきませんでした。考えた結果、私に一つの選択肢が思い浮かびます。

 

「もう一度教会に行こう」

 

 

就職して、2年と半年が過ぎようとしていた頃でした。

(6)変化への第一歩。わたしが大切にしたかった想いに気づく。へつづく